獨協大学父母の会では、会員相互の交流促進を図ることを目的に、父母交流会を開催しています。2024年度は2025年3月23日(日)、獨協大学大講堂において、獨協大学父母の会主催父母交流会(学内会場)「時代を越えて響く音楽と演劇の世界~シェイクスピアからバロック、そして現代へ~」を開催。366名の父母の会会員、学生が来場し、盛況のうちに終了しました。
第1部 講演会 「言葉と音楽 —シェイクスピア劇を「聞く」」
現代では演劇は「見る」ものと思われていますが、シェイクスピアの時代には芝居は「聞く」ものでした。和歌や俳句と同じように、シェイクスピアの戯曲は英語の韻文で書かれているからです。たとえ英語が得意でなくても、シェイクスピアの台詞のグルーヴ感を楽しんでみましょう。
津田塾大学大学院文学研究科博士課程英文学専攻単位取得満期退学(文学修士)。東京医科歯科大学教養部助教授を経て、2006年から獨協大学外国語学部英語学科助教授、2011年から同教授。2020年より国際交流センター所長を務め、2024年4月1日に学長に就任。
専門はイギリス文学・イギリス文化。主著に『生誕450年シェークスピアと名優たち』(NHK出版)、『じゃじゃ馬ならし』(大修館書店)。

「言葉と音楽 —シェイクスピア劇を「聞く」」
今日は、お子さんが「語学の獨協」に通っているご父母・保証人のみなさんに、ぜひ「英語のシェイクスピア劇」に触れていただきたいと思います。
シェイクスピアの作品は少し古いモダン・イングリッシュ(現代英語)かつ韻文で書かれており、音で聴いたときに調子の良さを感じられる側面があります。
ただ、同じく韻文で書かれた日本の和歌は宮廷文学として発達しましたが、実はシェイクスピア劇はそうした高尚な文学として位置づけられたものではありませんでした。例えば日本の歌舞伎のように、シェイクスピア劇も当時は庶民が気軽に楽しむ安価な娯楽だったのです。
日本の韻文は音の数を「五・七・五」に揃えることを言いますが、英語の韻文は音の強弱に規則性を持たせたものを指します。シェイクスピア劇では、音で観客を楽しませながら情景を豊かに表現し、なおかつ役者の魅力を引き出すような、巧みな言葉選びがなされているのです。
第2部では、クラシックコンサートをお楽しみいただきます。最近はテクノロジーによって時間と空間の制約から解放され、音楽や映画などが配信で手軽に鑑賞できるようになりました。裏を返せば、指定された日時に、指定された場所へ音楽を聴きに行ったり、演劇を観に行ったりする行為は、「時間と空間の制約に身を委ねる」ことにほかなりません。しかし、自分が歳を取ってから作品を思い返すとき、真に思い出すのは「鑑賞した内容」ではなく、「鑑賞しに行ったという自分の経験」ではないかと思います。つまり、単なる「情報」ではなく、「情報を享受していた自分」を思い出すのです。
過去の経験を後付けしたり、それを歳を取ってから思い出したりすることは、どんなテクノロジーにもできません。人間は誰しも、生まれてから死ぬまでという時間の支配のなかに生きています。この絶対的な法則のもとでは、ライブでパフォーマンスをするという営みは、なくなることはないだろうと思います。
参加者の声:第1部
学長の講義、興味深く聞かせていただきました。最後に先生がお話された、年を取って思い出すのは芝居そのものではなく芝居を見た自分という内容に深く感銘を受けました。今日の講演もきっと数年後思い出し、自分の経験を懐かしむ時が来ると確信しました。(法律学科4年 母)
学長のアカデミックな講話を聞き、文学も良いものだなと思いました。時代考察で考える必要もあり、英語を習得する上で文学はその一手になると考えます。(国際関係法学科4年 父)
学長のシェイクスピアに関する説明が非常に魅かれました。ライブでの感動はAIでは実現できない、これからも変わらない人間ならではのものですね。(フランス語学科1年 父)
前沢先生の講義を拝聴しながら、学生時代ロンドンで観たミュージカルやシェイクスピアの「夏の夜の夢」で端役を演じた事を思い出し、とても懐かしく30数年前に思いを巡らせておりました。先生のお話の通り、AIでは再現できない大切な経験でした。今、息子はリヨンに留学中です。良いことも嫌なことも沢山学び経験し、自分だけの大切な思い出や知識を身につけてほしいと思います。(フランス語学科 2年 母)